先日、福音の解説を読んでいる時、次のような文章が目に止まった。
『彼らは何よりもまず「願う人」でなければなりません。~イエスは彼らに「行きなさい」と命じるより前に、
「願いなさい」と教えます。神の国の宣教は、遣わされた者による行為というよりは、彼らを通して働く神ご自身の活動だからです。
宣教に向かう者の背後には、イエスとその神が控えていますが、無力な人間の宣教活動には常に危険が伴います。
ですから弟子の派遣は「狼の群れに小羊を送り込む」ことにも等しいことです。
しかし、イエスと神によって派遣されたことを思い起こすなら、慰めと励ましの中で、使命を遂行することになります。
「財布も袋も履物も持っていくな」という指示も、それが神からの派遣である、神の配慮は宣教する者の必要にまで及ぶからです。
神の働きは彼らが何も持たないからこそ明らかになります。道中でかわす挨拶も禁じられます。
それほどに緊急を要する派遣であり、ただひたすら道を急がねばなりません。挨拶もせず、まっしぐらに目的に向かい、
家にむかえられたときには、まずは「平和があるように」と告げます。~この「平和」は単に戦争のない状態のことではなく、
「満ち満ちた」状態を指します。それは神の救いの到来を示す賜物であり、神が宣教者を通して与える贈り物です。
(雨宮慧「今日のみことば年間第三木曜日ルカ10・1~9」より)
72人がイエスによって派遣される聖書の箇所である。はじめて、弟子達を派遣するにあたり、
イエスは、一番大切な宣教者としての態度を弟子達に告げたのだろう。
それは、「遣わされている」自覚であり、遣わした方が導いてくださることを自分の中心に置き、神に願い、
共におられるイエスの力で宣教することだと言う。
『平和は単に戦争のない状態のことではなく、「満ち満ちた」状態を指します』とある。派遣されていることを自覚している者は、
自分の中心が、自分の思いではなく、主イエスの思いであるように手あかがつかない状態に保ち、「満ち満ちた」神のいのちを携えて、
行くべき所に行き、そこで示される出来事の中で、自らの歪み、弱さを認めつつ、精一杯み国のために働くのだ。
木田 まゆみ
アジア管区本部修道院
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