オタワ愛徳修道女会
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悲しみを知っている人

  ゴールデンウイーク中行われた修道会の黙想会中、ゲッセマネの園で祈るイエスの場面が講話の中で取り上げられた。

「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れずわたしと共に目を覚ましていなさい。」
(マタイ26:38)

  イエスが弟子達に語るこの箇所で指導司祭が「イエスは何を悲しまれていたのだろうか?」と問いかけた。 沈黙の中で黙想者達の心の中にこの問いが広がっていった。

  イエスの悲しみとは何だったのだろうか。 孤独の中、むごい仕打ちの後、十字架刑で命を落とすことを思ってであるなら、悲しさというより恐れだろう。 イエスは死ぬほど悲しんでおられる。み国のための宣教に身を投じ、 弟子達と共に父なる神のみ心を実現していくことを断念することの悲しさなのだろうか。父なる神の思いがわからず、 切り離されてしまったと感じる事から来る悲しみなのだろうか。ゲッセマネの園の場面に身をおいて祈る。 イエスの心を思う。
  その悲しみは、自分が受ける苦痛や裏切りへの悲しみではなく、 これからイエスを知らないと言って否む愛してやまない弟子達の苦しみ、嘆きを思っての悲しみだったのではないか。 三度も「知らない。」と否み、そのことゆえに自分を責めてしまうペトロ、師から離れてしまう弱さ、 不甲斐なさの中で、絶望状態に陥っていく弟子達を思うとイエスはたまらなく悲しかったのではないだろうか。

あなたへ   イエスは生きることに誠実で、思いやりにあふれる愛とまことの人である。 と同時に「悲しみを知っている人」だ。それゆえ大勢の苦しむ人、底辺に生きる人々は、イエスに引きつけられ、 はじめて自分の悲しみに触れてくれた人と出会い、いやし救いが実現していったのだろう。

澄んだ眼の底にある ふかい憂いのわかる人間になろう
重いかなしみの見える眼を持とう

相田みつをの「憂い」の一節が浮かんだ。
M・K


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