オタワ愛徳修道女会
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今日の祈り

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十字架~他人の重みを担い続ける


 「すべての人の罪を負って十字架上で贖いを果たして下さった。どんな意味なのでしょうか。 イエスのご受難と死は、すべて彼以外の人々の邪心・弱さ・卑怯さ・ごまかし・悪意・妥協・暗い情欲の積み重ねが結果したものだということです。ゲッセマネでのイエスは、ペトロら主な弟子たちが怖れと不理解から試練を共にしなかったために、孤独の中に苦悩を耐え忍ばねばなりませんでした。ユダは計画的に主を裏切り、ペトロはわが身可愛さに主を否認します。大祭司は策略でイエスを死に定め、ピラトも政治的思惑で彼を見捨てます。ユダヤ人の下役はふだんの屈託をこの罪人にぶつけ、ローマの兵士たちは退屈をまぎらわすために彼をなぶります。誰も彼もの中に不正不純が混入しているのを感じます。そんな受難史の中でイエスだけがピュアな方として留まり続けています。 他人の重みーイエスが担われたものはこれであります。

(岩島忠彦説教集「福音の記憶」より)

聖なる三日間が珍しく職場の春休みと重なり、例年より典礼を味わう時を過ごす中で手に取った本の上に挙げた箇所、特に太字で記した言葉が心に留まった、いや腑に落ちた。「十字架とはいったいどういう意味なのだろう。」この問いは常に自分の中にある。胸に十字架を身に着けていると、子どもたちから「シスター、それは何?」と聞かれるが、(本当になんだろうね。)と考える。十字架と罪は一対で、罪の結果が十字架を引き起こすこと、自分の抱える弱さ、欠けが罪を引き起こし、神の愛を拒む~十字架となる~という感覚はあったが、「他人の重み」そう、まさにそうだと実感した。

岩島師は他人の重みがイエスの担われた十字架であると述べているが、共同生活をその条件とする修道生活を送る中、価値観、誓願のとらえ方、ライフスタイルが違う人たちと一緒に生活することは、お互いにとって当たり前に重いのだ。そのことから目を逸らさず言葉で言えたら重みは少し軽く健康的になり、イエスの誠実さに近づいていくことにつながるのではないか。職場でも、様々な考えの人々と仕事をする中で、お互いが助けられている、ありがたいという思いを前面に出しがちだが、無理せずに「受け止め方、見てる風景が違うね、これってしんどくて重いね。」と言えたら、そこからまたスタートできるように思う。  イエスにとって私は重い、けれどイエスは当たり前として担い、ご自分が死ぬことで私を、みんなを生かしてくださる。その苦しい過ぎ越しにあやかって私も「他者が重い」と素直に認めつつ、自他を担っていく力をこの聖なる日に求めたい

シスター木田 まゆみ


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